第4回講演会(2016年12月18日)
『改正』刑訴法とえん罪 ― 第3部 えん罪 ―
登壇者:桜井昌司氏(布川事件当事者)
コーディネーター:村井敏邦氏(一橋大学名誉教授、当会理事)
  0. 冤罪の実態を知るまで
1. 嘘の「自白」はどのように引き出されたのか
2. 事実に反する証拠が有罪を確定させました
3. 最初の国選弁護人には驚きました
4. 刑務所内でも杉山さんとは会えました
5. 爪が曲がるまで必死に手紙を書きました
6. それでも前向きに生きています
7. 水戸地裁でついに無罪判決を勝ち取りました
8. 刑訴法改正で冤罪はなくなるのか
 
0. 冤罪の実態を知るまで

 桜井さんと私が互いを知るようになったのは、最高裁の確定判決の出る前でした。今からほぼ40年前に、東京拘置所から手紙をもらいまして、その手紙の内容が、この『壁のうた』(獄中詩集)のなかで、「訴え」という詩として登場します。ご紹介します。
 「初めて便りをします。私は桜井昌司と申します。昭和42年、茨城県下での強殺事件でえん罪に問われているものです。……私は自白をしました。それは嘘の自白でした。でたらめの自白を理由に犯人とされているのです。……私は盗みをしました。放らつな生活を続けました。そのため犯人に作られました……私は人殺しはしていません。無実をあかすため闘っています。どうか力を貸してください」そして、助けてくださいというような文面で、桜井さんと、共犯とされた杉山さんのお二人から手紙をいただきました。

※布川事件
1967(昭和42)年8月、茨城県で起きた強盗殺人事件で、別件で逮捕された桜井昌司さんと、杉山卓男さんを犯人として年末に起訴され、無期懲役が確定した。長時間に及ぶ取調べの末、虚偽の「自白」を強いられ、この「自白」と現場の目撃証言のみを証拠に有罪判決が下されている。
 
確定審 第二次再審
1970.10.6 水戸地裁土浦支部、無期懲役 2001.12.6 再審申立て
1973.12.20 東京高裁、控訴棄却 2005.9.21 水戸地裁土浦支部、再審開始決定
1978.7.3 最高裁、上告棄却 2005.9.26 検察が即時抗告申立て(東京高裁)
第一次再審 2008.7.14 即時抗告棄却決定
1983.12.23 再審請求申立て(水戸地裁土浦支部) 2008.7.22 検察が特別抗告申立て(最高裁)
1987.3.31 請求棄却 2009.12.14 特別抗告棄却決定
1988.2.22 即時抗告棄却(東京高裁) 2011.5.24 水戸地裁土浦支部、無罪判決
1992.9.9 特別抗告棄却(最高裁)  
1996.11.12 杉山さん仮釈放  
1996.11.14 桜井昌司さん仮釈放  

1. 嘘の「自白」はどのように引き出されたのか

 

村井:桜井さん、守屋賞受賞おめでとう
ございます。

桜井:ありがとうございます。

村井:早速ですが、桜井さんにお聞きしたいのは、逮捕から自白までの経緯ですね。「1967年10月10日、夜風に金木犀は香って、初めての手錠は冷たかった(『壁のうた』の「記念日」より)」これは、1967年10月10日に逮捕されたということですか。

桜井:そうですね。事件は1967年8月30日と言われています。

村井:その約2か月後に逮捕されたわけですね。そのときはどう思いましたか。最初は窃盗の別件逮捕だったと思うのですが。

桜井:それなりに悪いこともしてましたから、過去を清算してやり直そうかなという気になりました。盗みというのは、同級生のところで借りたズボンを、返さずに質入れしてしまった事件で、実は柏市の同級生のところへ行ったときに、杉山にビール瓶で殴られてズボンが血だらけになったので、手近にあったズボンとベルトを拝借して穿きかえたんです。

村井:若気の至りと言いますか、杉山さんは暴力行為で捕まって、桜井さんは窃盗で逮捕されたわけですね。いつ強盗殺人の容疑で取調べを受けて、どのような内容でしたか。

桜井:逮捕後すぐにです。尋問したのは捜査一課の早瀬四郎という警部補で、何件泥棒しましたかなど、自分は聞かれるごとに全てを答えて、あとはアリバイの証言とその追及だけでしたね。

村井:そうすると、肝心のズボンとベルトの窃盗について詳しく聞かれなかったんですか。

桜井:ズボンのことなどが詳しく聞かれることはありませんでした。

村井:詩集にも出てくるのですが、「1967年10月15日、人をだました心が自分をも裏切って、嘘の自白をした」ということですが、10日に逮捕されて、15日まで5日間取調べを受けたんですね。最初は勿論否認しましたよね。

桜井:勿論です。「やっていない」のが事実ですから、「やってない」と言い続けました。

村井:「自白」をした経緯を少しお話しいただけますか。

桜井:よく皆さんの前で例えてお話しするのは、いがみあう夫婦喧嘩や、パワハラのように、圧倒的な力の差をもって、不利な状況に追い込まれることと同じだということです。防御もできない自分は、プロに殴り続けられる感じだし、頭ごなしに「お前が犯人だ、犯人だ」って言われ続ける。「これは大変なこと、苦痛なんですよ」って言っても、経験した者にしかわからないかもしれないですね。
おそらく親に理不尽に怒られたとしても、それは1時間や30分で終わりますよね。ところが朝の9時から夜中の12時頃まで、ずっとその逃げられない苦痛にさらされるんですよ。やっぱり逃げたい気持ちが強くなったときに、嘘の「自白」が生まれてしまうんですね。たぶん冤罪の人は皆このような境遇を経験します。

村井:その嘘の「自白」というのは、水を向けられるわけですね。

桜井:自分が「やっていない」と否認しても、「いやいや、お前と杉山だ。見た人がいるし、証拠がある。実際、布川に行ってるじゃないか」と、具体的なことを言われるんです。「じゃあ、違うんだったら、アリバイを言いなさい。アリバイが思い出せないなら、それが犯人の証拠だ」と追い詰められました。

村井:「杉山さんは自白したぞ」というように、切り違い尋問はされましたか。

桜井:それはね、早瀬さんって方は、「いや杉山は、杉山で言うんだから、お前はお前のこ
とを言え」って言うんです。「杉山はどうなんですか」って聞いても、「杉山は〜と言ってる」とは言いませんでした。でも嘘の「自白」をさせられた後は、「杉山はおまえが(首を絞めて殺した)と言ってるよ」って言ってきましたけどね。

村井:15日には「自白」したとされるのですが、その「自白」したときの気持ちはどのようなものでしたか。このとき嘘発見器にかけられたそうですが、その旨を事前に伝えられていましたか。

桜井:否応なしに嘘発見器にかけられて、「おまえが犯人だと出た」って言われた瞬間に、取調官の早瀬刑事は、何があっても自分に「やった」と言わせるつもりになったんだと気がついて、耐えていた心が折れました。早瀬刑事には「杉山は道路に立ってて、おまえは勝手口で被害者と話していたじゃないか、見た人がいる」って言われたんです。それに当時は、まさか警察が嘘をつくとは思っていなかったですから。

村井:すると、自分の話す「自白」内容が嘘であるにもかかわらず、「嘘」が「真実」だと思えてしまうんですね。その嘘発見器の結果は見ましたか。

桜井:いや、見せられていません。二瓶さんという鑑識課の人が、「よくわかりました。あとは取調べの方に説明して、理解していただきなさい」と言ったので、もうこれ以上苦しい取調べを受けなくて済むと安心したんですね。ところが、早瀬刑事は詭計を弄するのがうまい方で、「いやあ、おまえが犯人だと出ちゃったよ。俺にはおまえと同じ歳の息子がいて、ずっと犯人じゃなければいいと思っていたんだよ。だめだった」と言われた瞬間に、ポキッと心が折れました。

村井:それは違うでしょうと、抗議はしなかったんですか。

桜井:違いますなんて言う気力はもうありませんでした。嘘発見器の結果が出たって言われた以上反論できず、絶望して投げやりな気持ちになりました。二瓶さんは、嘘は言っていないという嘘発見器の結果を知っていたはずなんですよ。今にして思えば、早瀬刑事が嘘をついたのかもしれませんが、当時は何も考えられなかったんです。
2. 事実に反する証拠が有罪を確定させました

村井:嘘発見器で疑いが晴れるだろうと思っていたところ、逆にそれが決め手になってしまったわけですね。この「自白」をもとに強盗殺人罪で起訴されたのが12月28日のことで、「記念日」としてこの詩集のなかに記録がありますね。

桜井:その「自白」をした当時は、裁判官が嘘を見抜けないとは思っていなかったので、起訴をひとつの通過点としか見ていませんでした。

村井:「1970年10月6日、嘘が真実に変わった。人殺しの犯人だと裁判官が言った(「記念日」より)」これが一審有罪判決のことですね。そして8年後の最高裁でも下級審判決が維持されるわけです。裁判では目撃証言をした証人がいましたが、それについてはどのように思われましたか。

桜井:裁判官がこんな証人を信じるはずないと思っていました。渡辺昭一という証人の、「200メートル手前で事件現場前にいた二人の人を見た。ブロック塀と比較して背の大きさが判った」と証言する光景は、200メートル手前では植木の陰になってしまい、見えないとわかるんですよ。「バイクに乗って時速30キロで走り、5メーター幅くらいの道路の真ん中を通って、2メーター手前で被害者宅前の道路脇に立っていた二人の顔がライトに入った」という証言も同じです。自分にとって布川界隈は庭のようなものですからね、裁判所が信用するとは思わなかったです。

村井:東京高裁で検証を行ったと思うのですが、そこで「見えない」という結果は得られなかったのですか。

桜井:出ませんでした。裁判官は運転席ではなく、後部座席に座ったようです。後ろの席であれば、見えるのは当たり前です。警察や検察の主張に対しても、疑いの目を向けてほしかったですね。裁判官は訴追側の主張を善意に解釈しています。

村井:でも当時は、そういう冷静な感想を抱くには難しい状況だったと思いますが。

桜井:そうですね。高裁で四ツ谷巌裁判官に、「君なぜそんな大事な日忘れたんだね」と聞かれました。「なぜ大事なんですか。自分にとっては8月28日は普通の日です」と答えたら、「君、裁判している日は大事だろう」と言われ、「ああこれはだめだな」と思いました。

村井:真犯人であれば大事でしょうけれども、初めから「犯人」との思い込みがあると、そのような発言になってしまいますかね。

桜井:それに裁判官は、「人を殺した」ということを、実際に殺していない人が言うはずはないと考えるのかもしれませんね。

村井:検察官に対してはどのような感想を抱かれましたか。

桜井:有元さんという方は、非常に誠実で今まで出会ったなかで最高の検察官でした。否認調書をつくってくれて、「起訴するかどうかは僕の一存では決められない。上司と相談して起訴になったら、君は被告になるんだから。僕は原告という立場から君を犯人だ犯人だと言うけれども、求刑は死刑か無期に限られるのだから、やっていないならば、やっていないと言いなさい」と言ってくれました。そんな善意の有元さんは更迭されてしまったようです。

村井:検察官のなかにもいい人はいるけれども、組織的に善処するには難しいわけですね。
3. 最初の国選弁護人には驚きました

村井:最初の弁護人についてお聞かせください。

桜井:初公判の一週間前に、取手警察署で初めて面会に来た国選弁護人は、小野木武臣さんという元裁判官でした。「先生、おれやってないですよ」って言ったんです。そしたら、「君ちょっと待ってくれたまえ。君、僕を私選弁護人にしないかね」って言われましたね。「どうすればいいんですか」って聞いたら、「いやどうすればいいって、自分でもわからない」って小野木さんが言うので、「お金ないですよ。どうすればいいですか」とか、そういうやりとりがあって、結局、「じゃあ、俺の家にいってください」ってことになったんです。この弁護士さんは、面会に来ても裁判所で会っても、いつも事件のことを何も聞かずに帰っていきました。
この方が第6回公判までついて、全ての証拠に同意して辞任してしまいました。その後を引き継いだのが司法修習を終えたばかりの鈴木さんという弁護士で、一生懸命やってくださったんですが、判決を覆せませんでした。
今になって事件や裁判を振り返ると、色んな事実や証拠が伏せられたから、どんなことをしても真実を明らかにすることは難しかったんだなと思います。「これが日本の裁判か」というのが正直な感想です。

村井:その時点で絶望しませんでしたか。

桜井:「やっていない人間は常に勝つ」と思っていましたので、絶望はしませんでした。地裁で負けても高裁(1973.12.20東京高裁・控訴棄却)、高裁で負けても最高裁。でも、最高裁で負けたとき(1978.7.3最高裁・上告棄却)はさすがに、やや絶望的でしたね。3日間くらいはちょっと暗かったです。

 自分は東京拘置所の端の40何房にいたんですが、看守の足音で、“結果が出た”と感じました。扉を開けた大塚さんという看守の顔が本当に暗かったので、「ああ負けた」とすぐにわかりました。そのときは「人生が終わった」と感じたんですが、今思えば、あれから人生が始まったんだと思います。
4. 刑務所内でも杉山さんとは会えました

村井:刑務所のなかでは、桜井さんが杉山さんに話しかける機会はあったのですか。

桜井:刑務所の規則は色々と厳しいですが、刑務官も数年一緒にいれば、そんなに厳しくあしらうこともしませんでした。杉山とは顔を合わせることがあっても、話し込むこともなく、ちょっと目が合えば、“おう”って声をかけるくらいの距離感は保っていましたね。

村井:杉山さんは刑の確定後、どのような様子だったんですか。

桜井:彼は刑務官とのトラブルも、仲間同士のトラブルも多かったです。杉山の方が率直と言いますか、彼の場合、冤罪の悔しさがストレートに表に出てしまい、耐え切れずに暴れてしまった部分があったのかもしれないと、今はそう思います。
5. 爪が曲がるまで必死に手紙を書きました

村井:第6回公判までついていた弁護人が辞任して、控訴審(東京高裁)からは柴田先生が弁護することになったんですよね。

桜井:弁護士の柴田五朗先生は、色々と、本当に一生懸命やってくれまして、最高裁は判決まで5年かかりました。法学者研究会ができたのは、このときですよね。最高裁に公正裁判要請決議を出していただきました。

村井:そうでしたね。東京都立大学の清水誠教授、小田中聰樹教授のお二人が中心となって布川事件研究会がつくられて、検討を重ねた研究成果が法学セミナーに掲載されました。「もう何度同じ言葉を書いただろうか。……書くたびに殺人犯とされたものの言葉など、誰が受け入れてくれるのかと、ためらいを感じながら、きのうも書いた」と、「訴え」の詩にもありますように、桜井さんと杉山さんから手紙が届いて、我々研究者も桜井さんたちの窮状を知って、研究会から声明を出しました。手紙を書くのは大変だったでしょう。
       
桜井:そうですね。その手紙を書いた証に今でも爪が曲がっています。

村井:柴田先生と共に最高裁へ上告して、棄却された後に第一次再審を申し立てたにもかかわらず、再び棄却(1987.3.31再審請求棄却)されてしまいましたが、そのときはどのような心境でしたか。

桜井:3月31日の決定で結果がいいはずないと思っていました。千葉刑務所に来てくれた先生が暗い顔をしていたので、「大丈夫、わかってますから。がっかりしないでください。またやりましょう」と、声をかけました。
6. それでも前向きに生きています

村井:ここまでお話を色々聞くなかで感心していたのですが、それにしても桜井さんは明るく前向きですね。

桜井:国民救援会の人たちを始めとして、「まじめに本当に頑張りなさい」って声援をいただいて、その誠実さが私を変えたのかもしれません。こういうひと様の心は、それまで感じたことがありませんでした。それに、刑務所で生きようと、実社会で生きようと、今日は一日しかないので、全力で生きてみようと思いましてね。もう少し早くそれに気がついていたら、もっと違う生き方ができたかもしれませんね。

村井:この「人との繋がり」があって、「最高裁の上告棄却から新たな人生が始まった」と、先ほどおっしゃったわけですね。冤罪に遭っても自分の訴えが届かないとなると、自暴自棄になる可能性もありますよね。桜井さんはそうはならず、絶望的な状態からも一歩前へ進み出そうと思ったんですね。

桜井:そうですね。やっぱり自分自身が嘘を言えなくなりました。嘘をついて、「桜井ってこんな嘘言ったんだから、やっていないという殺人も嘘じゃないか」と言われるのは、
すごく嫌ですから。刑務所にいたときから、自分は「嘘を言わない」努力をしてきたつもりですが、「嘘」ということ過敏になっていて、社会に戻ったあと、嘘と言われて荒れたこともありました。

 でもせっかくこの世に生まれて、二度目はない人生、どうすればいいかを考えたら、やっぱり今日一日楽しく生きるしかないと思います。たとえどこにいても、一生懸命頑張って、今日を生きたという時間の流れを実感するしかありません。
7. 水戸地裁でついに無罪判決を勝ち取りました

村井:再審開始決定(2005.9.21水戸地裁土浦支部、第二次再審請求)からおよそ6年後に無罪判決が出たときは、どのような感想をお持ちになりましたか。

桜井:無罪判決のときは、もう勝つことを確信していましたが、無罪と言われて肩の荷が下りたように体が軽くなったんです。不思議な感覚でした。じわじわと来る安らかの喜びでした。それよりも強烈で記憶がとぶほど嬉しかったのは再審開始決定のときでした。柴田先生、谷村先生、自分と杉山と4冊渡されて、記念すべきものとして全員が自分の受け取った決定書に署名することになっていたんです。杉山は印鑑を忘れて、「指印を押すのは刑務所以来久しぶりだな」って暢気に言っていました。私は渡されてすぐにパアアッと見てたら、柴田先生に「署名しろー」って言われてしまって。谷村先生はスッと書いてパッと見て、すぐに後ろに立っていた中田弁護士に興奮したように決定文を指さしたので、「ああ勝った」と思いました。本当に、そこから先、廊下にいた先生方を握手したのは覚えていますが、あまり正確な記憶がないんです。外へ出たら自分より後ろにいたはずの杉山が前にいて、「あれ、こいつどこから出てきたんだろう」というように朦朧とした感じです。本当に今でも、あのときの喜びは忘れられないですね(2011.5.24水戸地裁土浦支部、無罪判決)。
8. 刑訴法改正で冤罪はなくなるのか

村井:ここで、先ほどの第1部に引き続き刑訴法改正をテーマに、ご意見を伺おうと思うのですが、刑訴法改正における冤罪の可能性について考えていきます。率直にお聞きしますが、今回の刑訴法改正によって、冤罪は無くなる方向に向かうのでしょうか。

桜井:かえって冤罪は生まれるのではないですかね。取調べの一部可視化が開始されてからの今市事件を見ても、「一部可視化」が都合よく使われていますよね。この使い方に問題があるのに、取調べの「可視化」が冤罪を防げるとは思えません。

村井:今市事件の場合は、録画された自白の一部を実質証拠として用いた点に問題がありますが、桜井さんは、今市事件の(取調べ可視化の)前例が今後も続くとお考えですか。

桜井:そうですね。そもそも捜査のあり方を問うべきなのに、問題のある尋問の仕方で引き出された供述が、信用できるとは到底思えません。
 
※今市事件
 2005(平成17)年12月1日、栃木県内の女児Xが下校途中に行方不明になった。翌日の午後2時頃に、茨城県常陸大宮市の山林で遺体となって発見されるが、その後犯人は見つからず、8年半後の2014(平成26)年6月3日に殺人容疑でYが逮捕され、同月24日に殺人罪で宇都宮地裁に起訴された。2016(平成28)年2月9日(地裁の部分判決)、2月29日裁判員裁判が行われた。しかし、直接証拠がないまま、取調べにおいて撮影された映像のうち、被告が自白する箇所のみが証拠採用され、その映像を見た裁判員らの心証が大きく変わり、有罪を確信させたことが問題視されている。対談では、このような「部分可視化」を問題として取り上げている。
 「(判旨)被告人が女児(当時7歳)を拉致し、わいせつ行為を行うなどした上、わいせつ行為発覚を逃れるため、殺意をもって、同女の胸部をナイフで多数回突き刺し、同女を心刺通(心臓損傷)により、失血死させたとして起訴された事案において、関係証拠から認められる客観的事実に、その一連の経過や殺害行為の態様、場所、時間等その根幹部分において信用することのできる被告人の自白供述を合わせれば、被告人が被害者を殺害したことに合理的な疑いを入れる余地はなく、被告人が被害者を殺害した犯人と認められるとして、被告人に対して無期懲役を言い渡した。(平成28年4月8日宇都宮地裁判決)」
 2016(平成28)年12月28日には、被告人Yの弁護団が東京高裁に控訴している。「自白の信用性」に疑いがあるとして、一審とは異なる法医学者による鑑定書等証拠56点の取調べを請求した。
 

村井:そうすると、可視化を拡大しても効果はないのでしょうか。

桜井:全面可視化は別として、捜査官が取調べを録画するかしないかの判断ができるのであれば、可視化の拡大はできませんよね。全面可視化でなければ、被告人には非常に不利です。

村井:先ほどお話しいただいた最初の国選弁護人によって、桜井さんの弁護士に対する不信感は拭い切れないかもしれませんが、弁護人が取調べに立ち会うということによって、改善される見込みがあるとは思えませんか。

桜井:勿論あると思います。日本では勾留期間は23日あると言われますが、そもそも「23日」という規定自体に疑問を抱かないところがおかしいです。日本の刑事訴訟法を根本的に変える必要があるんじゃないでしょうか。拘束される側からすれば、弁護士に23日間も立ち会ってもらえないのは大変です。欧米のように1日2日で済ませてほしいです。

村井:取調べの時間を縮小すれば良いのですね。今度の刑訴法改正では、桜井さんのおっしゃる根本的な改正はなされていないという結論になりますね。

桜井:そうですね。警察や検察側へ有利に働きます。本来なら、この国の政治家たちが変えるべきだと思うんですが。

村井:名残惜しいですが、このあたりで桜井さんから最後にひとことお願いします。

桜井:29年間刑務所に入って、物事を真剣に考えられるようになり自分は変わりました。今となっては「冤罪」という言葉は、中学校の公民の教科書に載るまでになりました。社会の変化も、ある日突然やってきます。権力組織も国民の支持なしには、すぐに崩壊する世の中です。「こういう社会はやめよう!」とこの民主国家を支える国民の皆さんを弛まず説得していきたいです。

 最後に、「冤罪」という不遇に陥りまして、そのことが幸せなことだと思えるのは、おそらく私ぐらいではないでしょうか。地道に生きていくことは意外に大事ですし、頑張って生きていれば、いいことあるから“頑張って”と発言していきます。これからも守屋賞の名に恥じないように、命ある限り頑張っていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。
 

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