第3回講演会(2015年12月20日)
第1部 「これからの刑事司法」
登壇者 安岡崇志氏(日本司法支援センター理事、元日本経済新聞論説委員、元新時代の刑事司法制度特別部会委員)
      後藤 昭氏(青山学院大学教授)
コーディネーター 三島 聡氏(大阪市立大学教授)
 
第1部 「刑事司法の在り方――特別部会で考えたこと」
安岡崇志氏


 いまご紹介いただきました安岡と申します。先ほどから法制審特別部会、刑事法部会と呼ばれていましたけど、正式名称は「法制審議会 新時代の刑事司法制度特別部会」という長い名前で、審議も長く3年あまりに渡りました。その間、会合は30回。それだけの回数を重ねながら議論の中身は、私の見るところ討議、熟議を経て一致を見出し、異なる意見を昇華させて、新時代にふさわしい刑事司法制度に向けた要綱案をつくる、という具合にはなりませんでした。同じく委員を務められました映画監督の周防正行さんが『法律時報』の2014年9月号、それから2015年の4月に出されました『それでもボクは会議で闘う――ドキュメント刑事司法改革』(2015年、岩波書店)のなかでこういうふうに書かれています。「およそ議論を深めるという状態にはならなかった。委員と幹事、合わせて40名の話し合いは、各組織の利益代表によるいいっぱなしの感が強かった」。私も同感です。ただ、自分自身を振り返ってみますと、部会審議の始めの頃と最終段階では、獲得目標、到達目標は大きく下がりましたし、刑事司法についての考え方も変化したところがあります。ですから、私自身、法制審の議論を通じて発見があり、新たな視点を得たということだと振り返っています。
 
はじめに

 私が部会審議で発言したり、他の委員、幹事の方たちの発言について考えたり解釈したりするときの拠り所は、新聞記者時代に形成した刑事司法についての知見や意見が主なものでした。私は1974年から2011年まで日本経済新聞でずっと記事を書いてきました。直接、警察司法、刑事司法に関わるところを担当したのは一般の記者の時代と論説委員のときを合わせて10年余りで期間としては長くはないのですが、記者時代にずっと事件、裁判には関心を持ち続けてまいりましたので、自分のなかでおのずと刑事司法についての意見、知見が形成されたと思います。従いまして、これからお話しするのは表題としては「特別部会の場から見た」としていますが、実際には記者時代に記事を書きつつ考えた部分が相当程度入っています。部会で感じたことよりもむしろそちらのほうが多いです。新聞記者のやり口は「わが身を顧みず、とにかく批判をする」ということですので、ここにたくさんいらっしゃる刑事司法関係の方々には耳障りなところがあるでしょうが、ご容赦をお願いしたいと思います。
 
「真相解明への自信と執着」

 会場配布資料に批判したい3点を書きました。まず、@「真相解明への自信と執着」からお話しをしたいと思います。特別部会の答申案「新たな刑事司法制度の構築についての調査審議の結果」の作成に向け、中間とりまとめの叩き台として事務局が文書をつくりました。事務局は法務省刑事局の方々、検事さん、事務官の方々が中心でそのなかには警察庁から法務省に出向されている方もおり、いずれにしても捜査、訴追機関の方ばかりです。この中間とりまとめの文書は「時代に即した新たな刑事司法制度の基本構造」で、その叩き台というのが、「部会長試案」というものです。試案をめぐって議論をしたのが2013年1月18日の第18回会合で、やり取りは法務省のホームページに特別部会の議事録がアップされていますので、それをご覧になればわかると思います。
 この「部会長試案」の基本構造は、それまでの議論を反映して、要綱案に盛り込む事項とそうでない事項を仕分けし、盛り込む事項について要綱案のおよその方向を示したものです。この中間とりまとめをもとにして法律専門家、実務家で構成する二つの作業部会で具体案を作成する、こういう段取りになっていました。
 「部会長試案」の前文にあたる「時代に即した新たな刑事司法制度を構築するにあたっての検討指針」のなかの総論部分を一読して私が感じたのは、従前の取調べの在り方や供述調書の作り方に対する手放しの評価で埋まっていたということです。例えばこんな文章がありました。「供述調書は、公判廷で供述人からありのままの供述が得られない場合等においては、捜査段階における信用すべき供述内容を公判に顕出させる手段として機能してきた。取調べによる徹底的な事案の解明と綿密な証拠収集及び立証を追求する姿勢は、事案の真相究明と真犯人の適正な処罰を求める国民に支持され、その信頼を得るとともに、我が国の良好な治安を保つことに大きく貢献してきたといい得る」。
 それからもう1つ、この部会の焦点だった取調べの可視化・録音録画制度の要綱案の方向性を示したのは、こういう文章でした。「取調べの真相解明機能が損なわれて捜査に大きな支障が生じ、犯人を的確に検挙できなくなる事態を招くようなことがあってはならないとの意見も示された」。さすがにこれらの文章は私を含め多くの委員が批判する意見を出しました。結局、次の19回でこの基本構想は承認されるのですけれど、その成案では大幅に書き直されています。
 本音は細部に宿ると申しますか、私はこの「試案」を見て、捜査機関の人たちは取調べによる自白獲得がすなわち真相の解明であるという観念にとらわれていて、そしてついつい本音が出てしまったのではないかと、改めて思い知らされたわけです。部会の議論のなかでも主に捜査機関とりわけ、警察当局側から、可視化慎重論というより可視化に反対する意見が繰り返し出されましたけど、その意見の背景にも真相解明への自信と執着、それから取調べによる自白獲得がすなわち真相の解明であると、こういう捜査機関の強固な思いを度々感じました。
 次に、特別部会から離れて記者時代の経験をお話しします。裁判員裁判の施行に備えて法廷で使う難しい言葉を一般の人に理解できるような言葉にいい換える作業を法曹三者それぞれでやっているなか、弁護士会が「検察側冒頭陳述」というのがわかりにくいから「検察官が考えた事件のストーリー」といい換える案を出したところ、それに検察が強く反発したそうです。この出来事は記事にするほどのことでもなかったので確認はしていません。ですが、さもありなんと思いました。何しろ検察からすれば冒頭陳述は証拠に基づいて解明した事案の真相を述べるものですから、反発するのは当然です。
 それから、2009年正月のジュリストが「裁判員法元年」の特集をしたのですが、そこに当時、法務省刑事局刑事法制管理官だった辻裕教検事が「捜査において真相が解明されていなければ、分かりやすく迅速、かつ的確な公判審理を期待することは困難と考えられることから、裁判員裁判対象事件については、その観点からも、徹底した捜査による真相の解明がより望まれるともいえよう」と書いていました。この辻検事の論文から、私は、真相は捜査によって解明できることが、検察官にとって所与の前提となっていると受け取りました。辻論文に限らず、私は新聞記者時代から、日本の捜査機関は真相解明機関を自任している、捜査機関は自らが捜査によって真相と認定したものが即ち事案の真相であるとしているんだと度々感じ、そして、同時に違和感も覚えていました。過去の出来事をつまびらかに再現するのがどれだけ難しいか、取材で事実を固めて文章化する難しさは新聞記者なら骨身に沁みています。ですので、いくら捜査機関に強制力があるといっても、神ならぬ身で「我らは真相を解明する」というふうに公言するのは無邪気に過ぎるのではないか、そういう強い違和感を禁じ得なかったのです。
 それからこれは最近の話題ですけれど、2015年12月に東京地検の検事正に就任した八木宏幸検事が記者会見をしまして「供述調書至上主義から脱却するのが検察のコンセンサスだ」とおっしゃいました。と同時に「取調べ室で被疑者に真相を語ってもらい、反省を述べてもらう必要性はなくなっていない」ともおっしゃっています。
 以上の次第で、日本の捜査機関の真相解明への自信と執着の強さを特別部会でも感じたのです。これが第1に批判すべき点だろうと思います。
 
「張り巡らせたジャーゴンの障壁」

 次にA「張り巡らせたジャーゴンの障壁」です。ここで私が「ジャーゴン」という言葉を使った問題意識は、司法制度改革審議会が2001年にまとめた意見書「国民的基盤の確立のための条件整備」のなかの一文が説明してくれています。「我が国の基本的な法令の中には(中略)法律専門家以外には容易に理解できないものがある。分かりやすい司法を実現するためには、司法判断の基礎となる法令(ルール)の内容自体を、国民にとって分かりやすいものとしなければならない」。私は全くその通りだと思います。この意見書が槍玉にあげたのは民法、商法でしたが、私は刑事訴訟法こそ容易に理解できない、一般の人に理解されることを拒否する法律だと思っています。刑訴法を難解にする理由を記者時代に考えたのですが、その理由の一つ目は条文の配置構成が事件の認知から科刑に至るまで刑事手続の順番に並んでいないこと、二つ目は条文自体が非常に晦渋であること。それからもう1つ、「難しい文章だからよくわからないがこういうことだろうな」と条文から読み取る内容と、実務上の解釈・運用の実態とがかけ離れてしまっていること、つまり条文と実務の乖離です。このかけ離れについては、亀山継夫元最高裁判事が論文に「司法研修所の刑事教官が最初に困る大変な課題は、大学で教えている刑訴法の内容と実務がかけ離れているので、どう教えるかということだ」と書いておられます。
 特別部会でも同じことを発言しましたが、私は特に321条1項2号の「信用すべき特別の情況の存するとき」、これは文章自体何をいっているのかわからない、意味をなさない文章だと思います。それから実務での運用実態も、条文では「例外的に採用できる」と読めるけれども、実務では決して例外的ではなく、条文と実務が全く乖離しています。それから特信性、「信用すべき特別の情況」について最高裁判例では、「信用すべき特別の情況が存したか否かは必ずしも外部的な特別な事情によらなくても供述の内容自体で判断できる」と解釈されています。特別な情況とは外部環境にしか存在し得ないものですから、これは、条文がいっていることを否定する解釈です。条文がすでに常人の理解・了解を超えているのですが、運用・解釈は一層変なものといわざるを得ないと私は思います。
 こういうかたちで、とにかく条文自体もわからないし、条文の実際の適用の実態も外部からわからない。つまり、仲間内にしか通用しない言葉であるジャーゴン、これが刑事司法の世界には張りめぐらされていると感じるので「ジャーゴンの障壁」という言葉を使ったわけです。
 次に「張りめぐらせた」です。誰が何のために張りめぐらせたのか。これは失礼ながら実務家それから専門家の方たちが、一般市民を排除するために張りめぐらせていったと私は思っています。一般市民が了解可能な条文になってその適用・運用の実態がわかってしまったら、これは大変な非難を浴びるので、わからない言葉を、一般市民からの批判をよける防壁にしているのだと思います。被疑者、被告人あるいは事件関係者として捜査の対象になった一般人に「あなたの権利はこういうふうに守られている。あなたに対する取調べ、捜査の手続きはこういうふうに進めているんですよ」というのがわかるようになってしまうとまずいので、いっそわからないままにしているのではないかと考えたわけです。そこでそういう状況を、「刑事司法はジャーゴンの障壁を張りめぐらせている」というふうに考えました。江戸時代に生まれた穂積陳重は「法文を簡明にするは、法治主義の基本なり。難解の法文は専制の表徴である」と説いています。現在の日本の刑事司法の実務家、専門家の方たちは、刑事司法における自分たちの「専制」を維持するために「難解の法文」を温存していると私は疑っています。
 
「障壁のなかの鏡のない世界」

 最後にB「障壁のなかの鏡のない世界」です。「障壁のなかの世界」とはいうまでもなく、いまお話ししたジャーゴンの障壁によって一般市民を排除している刑事司法の世界を指しています。次に「鏡のない世界」ですが、この言葉を思いついた契機は、新聞記者時代の経験です。
 冤罪事件それから無理、無茶、無体な捜査起訴に対して無罪判決が出るたびに「自白獲得に血道をあげる捜査と、供述調書を偏重する裁判が諸悪の根源である」という同じ記事を何度も書きました。どうしてこんなに同じことを何度も書かなければいけないのかと思いながら、刑事司法に携わる専門家、とりわけ裁判所と訴追当局は冤罪や無理な捜査を生んだ原因を突き止めてそこを正そうとする気はないのではないかと感じていました。
 1974年元旦号のジュリスト「刑事訴訟法25年の軌跡と展望」という特集をざっと読んだところ、特別部会の課題が40年前に出揃っていることに驚くと同時に考え込みました。刑事司法の世界ではなぜ改善、進歩が進まないか、自分なりに考えて自答したのが「刑事司法の世界には鏡がないのだ」ということです。つまり、外部からの批判を鏡として己を見つめる姿勢がないからではないかと考えた次第です。新聞記者は検察庁の幹部に対して、「検察は捜査の起訴について説明責任がないのか」とよく尋ねるのですが、だいたい「説明したいけど刑訴法47条があるから」といって拒否します。裁判所はどうかというと、裁判批判を雑音扱いすることはないですけど、司法制度改革審の議論を振り返りますと、司法の運営は概ね上手くいっているんだとの自己評価をされています。これらは裸の王様の独り言ではないかと私は感じました。
 それから、刑事司法の欠陥を指摘し「こういうところは改善しないといけないんじゃないか」とおっしゃる弁護士の方、学者の方たちはどうだろうかと考えますと、失礼ながら、それぞれ主張はなさるのですけども改善、改革を現実に一歩でも進めよう、妥協をしても良いから少しでも良い方向へ行こう、行かせようとする考え、意思はないように見えます。ただ、この見方を良い意味で裏切られたのが特別部会で弁護士の青木和子委員が中心になって提案した「中間的な身柄拘束処分制度」の提案です。この提案は結局実りませんでしたが、人質司法という言葉を使わずに、まず半歩でも前進しようとする現実的かつ真摯な提案でした。これには目を見開かされた思いがしました。
 それから、もう1つ最後にいっておきたいことがあります。これは特別部会でのどの方のどの発言と特定はできませんが、しばしば感じさせられたことです。実務家の方たちは、被疑者、被告人となった方たちを、名前とかけがえのない人生を背負った一人ひとりの存在として観念していないのではないかと感じました。彼らの目には人間ではなくて処理すべき事件の1件と映っているのではないでしょうか。勾留請求が年に10何万件かと思いますが、そのうちに何件か不当に勾留請求を認めてしまうケースがあったってしょうがない、10何万件の裁判のうちに誤判が何件かあってもしょうがないという感覚で事件を扱っているというふうに思われます。同じく特別部会の委員でありました村木厚子さんは法律時報の2014年9月号にこう書かれています。「冤罪は治安の維持のための不可避のコストであるかのような発言や、争いが起こる頻度の低い犯罪については可視化が『必要ない』といった発言には、専門家であるが故の『感覚の麻痺』を感じた」。私は、この感覚の麻痺のなかには、己が姿を見る視覚の麻痺も含まれているのではないかと感じる次第です。
 以上、雑駁ながら私からの報告は以上といたします。どうもありがとうございました。
 
第1部 「刑事司法改革について――特別部会で主張したこと」
後藤昭氏


 みなさんこんにちは、後藤でございます。きょうは私どもの法人の企画にお集まりいただきましてありがとうございます。
 私も法制審特別部会の委員の一人として議論に関与しました。その議論の結果と中身は逐一ウェブ上に出ておりますので、みなさんそれぞれの立場から批判をしていただけると思います。
 
部会の構図

 まず、この部会が基本的にどういう構図のものだったのか振り返ります。そもそもこの議論は村木厚子さんが無罪になった郵便不正事件がきっかけで始まりました。まず「検察の在り方検討会議」での議論を半年して、その後この「特別部会」に移りました。当時の江田五月法務大臣の法制審議会への諮問自体のなかに「取調べの録音・録画について意見を出してくれ」という趣旨がもう入っていました。取調べの録音・録画は刑事司法の透明度を高めるための手段として非常に有効なものとして想定されていたのだと思います。私自身も透明度を高めていくことがいま日本の刑事司法で一番重要な課題ではないかと考えておりました。それを推進することがこの部会の非常に重要な役割であると考えたし、客観的に見てもそうだったと思います。
 ところが、それに対して、これまで捜査をになってきた方たちから、取調べの録音・録画によって取調べが今まで通りにはできなくなり、供述が取りにくくなるという恐れから、非常に強い抵抗がありました。同時に、取調べに代わる捜査手段が欲しいという要求が非常に強く出てきました。つまり、取調べの録音・録画によって透明度を高めようとする要求とそれに対する抵抗と、透明化をある程度それを入れざるを得ないとすれば代わりのものが欲しいという要求がありました。この二つの側の要求の対立がこの部会の基本的な構図だったと思います。それで結果として出てきた答申はこれら二つの要求の妥協の産物であったと考えるべきであると思います。
 もう一つ、この部会の非常に大きな特徴は構成員にあったと思います。今までも法制審議会に法律家でない方が加わられていることがあったわけですけど、今回の特別部会は特に一般有識者委員が多く加わりました。安岡さんもそのお一人です。かつ、その方たちが非常に活発に議論に参加され、ある部分では議論を主導されました。そのことがこの部会に顕著な特徴だったと私は考えています。
 
提案したこと

 私自身のことをもう少しお話しさせていただきたいと思いますけど、私自身はこの会議のなかで影響力の強い立場ではなかったと思います。もしかすると、いてもいなくても同じだったかもしれないです。それでもいくつか自分自身で重要だと思う提案をしました。それが結局本格的な議論に至らずに終わったものも、いくつかございます。
 一つは被疑者取調べへの弁護人の立会い権です。これは弁護士会を中心に多くの方が主張されたし、村木さんも主張されたのでかなり議論がされたわけですけど、非常に早い段階でそれは無理だということで退けられてしまいました。
 もう一つは刑事訴訟法89条4号、権利保釈の除外事由としての「被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」です。特に否認事件だと、これで保釈がされないという例が多く、それが弁護士のいわれる人質司法だという批判の中心になっているわけです。私はそもそも、逃亡については保釈保証金で防げるのに、罪証隠滅は防げないというこの論理がどうしてもわからないので「合理性がない条文なので、4号は廃止しましょう」と提案したのですけど、これはほとんど誰も賛成してくれなくて、とりあわれなかったというところです。
 もう一つが先ほどの安岡さんのお話しに出てきました321条1項2号、検察官面前供述調書の伝聞例外としての特別扱いの部分です。私はこれを「廃止しましょう」と提案しました。検察官という当事者的な立場にある人が作った調書を伝聞例外とし、特に信用できるものだと扱うこと自体に合理性がありません。そもそもこの部会に対する諮問が「取調べと供述調書に過度に依存したあり方を改めろ」というもので、それが我々の使命であるのだから、これに手をつけなければすることがないだろうというぐらい重要だと私は思ったのですけど、なぜか賛成が少なかったです。先ほどの安岡さんのおっしゃった321条1項2号後段のお話しと密接に関連するところで、2号は建前上は非常に例外的なものです。つまり、検察官に対する供述のほうが信用すべき特別な状況があるというのは、まさに条文が「特別な」と書いているわけですから、それは特例であって普通は法廷での供述のほうが信用できるという推定から出発しているはずですよね。ところが、今までの運用、特に裁判員裁判が始まる前の運用では、弁護士たちも大抵は原則と例外が逆転しているといい、不当であると主張していたわけです。私は「検察の在り方検討会議」での議論を通じて、実はそうなる必然性が条文のなかにあるのではないかと考えました。何かというと、まず2号前段です。2号前段は、供述不能の場合に無条件で調書を採用できることになっています。つまり立法者が、検察官が取った供述調書は法廷での供述と同等ないし、それに近いぐらいの信用性があるという前提に立っているのです。その前提と2号後段の、法廷での供述のほうが信用できて検察官に対する供述は原則的にはそれより信用できないという建前とは、実は矛盾していると思います。つまり、前段と後段の間でそもそも基本的な考え方が矛盾している、そういう内在的な矛盾を含んでいる条文だと私は考えるようになりました。そういうこともあって廃止を主張したわけです。もっとも私自身、この会議で廃止が通ると思ってはいませんでした。望むらくはこれがもう少し真剣な議論になって、せめて2号前段にも特信性の要求を書き込みましょうというようなことまで持っていけたら良いと考えたのですけど、それには至りませんでした。
 それからもう一つは、共犯者供述についても補強証拠を要求するということを、特に協議合議制度とか刑事免責の関係で入れるべきだと主張しましたが、これもほとんど他に賛成してくださる方がいなくて実現はできず、あまり真剣に議論されませんでした。
 
提案できなかったこと

 その他に、実は主張したかったけれどタイミングを逸して主張できなかったものがあります。一つはこれも安岡さんのさっきのご意見に関わりますが、刑事訴訟法がわかりにくいというお話しです。このご意見はごもっともなので、それについてもう少し真剣な議論がされるのではないかという期待がありました。私は「いま刑事訴訟法の構成、法典を全面的に改めるのは無理がある」と意見が出たときには、「せめて刑事訴訟法1条に無罪推定原則を書きこんだら刑事訴訟法の基本的な立場がはっきりするのでないか」という提案をしたいと思ったのですけど、そのタイミングを失ったまま終わってしまいました。これは安岡提案に対する私のサポートが足りなかったということですね。
 それからもう一つ、私はそもそも被疑者や参考人の「取調べ」という言葉自体を改めたいと思っています。「取調べ」は相手を証拠「物」のように扱っている発想が表れている言葉なので、これを例えば「事情聴取」とか、もっと中立的な言葉に改めるべきではないかと思ったのです。しかし、それをいい出すようなタイミングが掴めなかったというのが実情でございます。
 あとはほとんど私一人が反対したような項目もあったのですが、やや特殊なのであとで時間があればお話ししたいと思います。
 それでは「後藤自身はこの議論と答申をどう総括するのか」と問われますと、私が目指した、そして客観的にもこの部会の大きなミッションであったと思われる刑事司法の透明化は、不十分に終わったといわざるを得ないだろうと思います。ただし、そのことと現在出ている法案をどうするべきかとは、分けて考えるべき問題かもしれません。
 
答申には入らなかった重要事項

 その他に、議論を散々したんだけれども結局答申には入っていない、しかし非常に重要な事項がいくつかあります。これは今後のために意識しておく必要があると思います。
 一つはこれも安岡さんのお話しに出てきましたが、青木和子委員が提案した「勾留に代わる代替的出頭確保措置」ですね。これについては私もこの機会を逃したらできないだろうと思ったので一生懸命議論して、そのなかではかなり妥協的な案も出しました。つまり、ここでの捜査官たちの本音であり一番大きな反対理由は、これを認めると取調べが出来なくなるということです。でもさすがに私の立場では「取調べの出頭義務を課す」という条文は提案できないので「正当な理由がなく出頭しない場合にはそれが逃亡の疑いの一つの根拠になりうる」というような条文にはできないかと妥協的な提案をしたのですけれど、いわば理論的な立場から「いやそんな中途半端なのはだめだ」と反対があって、結局は採用されませんでした。
 もう一つは被告人の証人適格ですね。これもかなり真剣に議論がされたところで、弁護士のなかにも今のような被告人質問という中途半端なやりかたよりは証人になるかならないかの選択ははっきりさせたほうが良いと考える人たちがいて、これはかなり深刻な問題だと主張されていました。ただ、私自身はそれに反対しました。私にはいわゆる公判での自白事件、争いのない事件で被告人が宣誓しないと証言できないという手続きがイメージできません。直観的な感覚ですが、すごくやりにくいものになると思います。もしこれを取り入れるとすれば、日本の刑事手続の構造を全面的にアメリカ化することと一緒にやらないと整合性がとれないと思うのです。例えば有罪無罪の確認をする部分と、量刑審理を分ける手続二分です。宣誓しなければ被告人が語れないのは前半の部分だけ、量刑審議のところはそれを要求しないと区別する。それをやるとなれば当然、「有罪の答弁」という制度を取り入れる必要があるのではないかという問題も起きます。
 もう一つは、捜査段階での黙秘権の実質的な保証がないと、結局被告人は自白してしまって、公判ではそれに対する説明をせざるを得なくなるので、結局、証人になるかどうかの自由な選択権があるといえなくなると思います。したがって、これは最初の話に戻りますけども捜査段階での取調べの弁護人の立会権を認めるとか、あるいはいわゆる取調べ受忍義務というような考え方を否定されるという前提がないと、この被告人の証人適格という制度はやはり整合性がないだろうと考えています。
 
感 想

 あとはこの議論に参加して私が感じたことをいくつかお話しします。一つは、日本では警察組織が反対するような立法をするということがまず無理なのだなというのが率直な感想です。この法制審議会の場でも警察の組織的な反対を押し切って決定をすることはできないのです。仮にそれをやったとしても、それは法律にはならないのだろうなと私は感じました。ですから日本の政治状況が一番ネックの問題であると思います。もちろん法制審での議論がうまいとかへたとか良いとか悪いとかその評価自体は可能だと思いますけど、このような政治状況等といったすごく大きな条件を念頭に置かないと我々がどういう選択をするべきかは決められないだろうと思います。そうであれば私は裁判所が積極的な役割を果たすべきだと思います。例えば取調べの可視化についても、判例で実現するという可能性も十分にあるわけです。裁判所には自白法則という手段が与えられているのですから。でも、少なくとも今までの最高裁判所はそういうことを積極的にやろうとはしてこなかった。そういうことに対する、裁判所の責任は非常に重大だろうと思いますし、私たちが政治的には難しい状況のなかで突破口を見出すとすれば、一つの可能性は裁判所をもっと活性化することではないかと思います。
 それから、もう一つはこういう立法の議論をするときに研究者がどういう役割を果たせるのかということです。私自身はこの部会の議論の中で研究者が十分な役割を果たしたとは思いません。それよりも、安岡さんたちのような一般有識者のほうが重要な役割を果たしたというのが客観的な評価だと思います。本当は研究者たちも、一般有識者たちが果たしたような役割を果たすべきだった。けれどもそれができなかったということは、私たちが抱えているすごく大きな問題を表しているんだと考えております。
 あとは、ご質問などありましたらお答えしたいと思います。
 
ディスカッション

三島:
 それでは、ディスカッションに入りたいと思います。
 まず、お二人に確認をしたいのですが、この部会の最初の頃(第2回)に、委員同士で改革の課題とか目標について意見を出し合うなか、安岡さんは「一般国民が公正・透明と了解できる刑事司法制度」の実現ということをおっしゃいました。具体的には今日お話しされた3点を特に強調されたと思います。後藤さんは今のご報告で「刑事司法の透明度をもっと高めていく」というお話しをされましたけど、もうちょっと大きなテーマがあって部会の最初では「人を尊重する公明正大な刑事司法」ということをおっしゃっていました。安岡さんは刑事司法を外部から、後藤さんは内部から見られているわけですが、お二人のおっしゃった「公正・透明」、「公明正大」という言葉は同じような意味合いと受けとりました。この点について何かコメントはありますでしょうか。

安岡:
 「公正・透明」という言葉は、私は第2回の「検討課題と審議の進め方」というところで述べました。私はそもそもこの特別部会の課題というのは、改革審の意見書で積み残しになっている課題、すなわち刑事司法を国民が理解でき支持できるもの、透明性のあるものにしなければならない、と重なります。そこから引いて「透明」という言葉を使いました。
 外部から見ているということについては、私は特別部会のなかで、いまの日本の刑事司法では、刑事手続のなかにある日突然被疑者として放り込まれた人はカフカの小説の『審判』の主人公ヨーゼフ・Kのような気持ちになるんじゃないかということを申し上げました。私が身を置くことになるのは、『審判』のなかに登場してくる変な裁判官とか威張るだけで頼りにならない弁護士ではなく被告人ヨーゼフ・Kのような立場ですので、外部からというのはそういう意味ですね。

三島:
 そのような改革の目標を立てられたわけですが、実際はいまお二人がご報告されたように法制審議会特別部会のなかでこれを実現するのには非常に難しい状況があったわけです。その理由についてはそれぞれお話しされましたが、他方でこの改革は元々村木事件に端を発していて、部会の委員には村木さんご本人がいらっしゃいます。それならば、それなりに問題がわかっているように思うんですけど、それにもかかわらず、なお乗り越えられないというか実現されませんでした。
 「一般国民が公正・透明と理解できる」ということに関連していえば、裁判員裁判は司法に対する国民の信頼の確保のためだといわれてきました。それにも拘わらず今回の改革論議でこのような理念が実現されないのなら、結局、専門家たちは基本的に国民のほうに顔を向けていない、ないしは国民のことはあまり考えていないということになります。このことについてお二人はどう思われますか。

安岡:
 簡単にいえば、始まったときのふれこみと出来上がったものが随分違うんじゃないかということだと思います。その原因は、先ほどの後藤さんの報告「警察当局が反対する立法は難しい」という話しと関連しますが、この部会の事務局を法務省、一部、検察もありますけど、そこがやっているということにあると思います。私の報告で申し上げましたけども、答申案要綱の叩き台、これが会議が始まったときのふれこみと比べるとものすごく下がっているんです。警察当局から見ると上がっているかもしれませんが。その叩き台は事務局が作っています。そこのところに一番問題というか原因があるのかなと思います。

後藤:
 難しいですけど、一言でいうと実務家に限らず専門家たちは保守的だといえます。今までのやり方を大きく変えることはすごく難しいのですね。もしかすると、法制審に委員として出てきている人たちにはもう少し大きく変える気があったとしても、現場がそれについてこず、その現場の保守性に引きずられてしまうのかもしれません。

三島:
 それに関連して、安岡さんからさきほど、実務家の人たちが被疑者・被告人を一人の人間とみていない、処理すべきたくさんの事件の一つになってしまっている、冤罪が多少生じてもしかたがないと考えているのではないか、というお話しがありました。後藤さんが「人を尊重する」とおっしゃっているのは、個々の被疑者・被告人を一人の人間として尊重する、そういう趣旨だと考えてよいですか。

後藤:
はい。

三島:
 では、次に、部会で審議の対象となった具体的な事項について聞いていきたいと思います。きょう配布した資料のなかに「刑事訴訟法等改正案に対する刑事法学者の意見」というものがあります。これは私たち刑事法研究者が議員や一般の方々に読んでいただきたいと思って作成したものです。配布資料にはそのいくつかの事情について、大体の制度の概要が書いてありますので、見ていただきながら進めたいと思います。
 今回の改革の中軸になっているのが取調べの録音、録画です。その対象事件は裁判員裁判対象事件と検察官独自捜査事件であり、例外事由は、a記録に必要な機器の故障その他やむを得ない事情により、記録が困難であると認めるとき、b記録の拒否その他の被疑者の言動により、記録をすると被疑者が十分に供述できないと認めるとき、c被疑者の供述状況が明らかにされると、被疑者またはその親族に対し、身体・財産への加害行為または畏怖・困惑行為がなされるおそれがあることにより、記録をすると被疑者が十分に供述できないと認めるとき、d当該事件が指定暴力団の構成員によるものであると認めるときと、かなり広汎です。また、効果としては、検察官が自白調書の任意性を立証しようとする場合には、当該取調べの録画媒体の証拠調べを請求しなければならないとされています。まず、対象事件が限定される一方で例外事由がかなり広く認められたという点についてはどのようにお考えでしょうか。

安岡:
 例外事由を可能な限り少なくするということは、私と有識者5人の共通した考えでした。有識者5人連名では2、3回文書も出しました。私などは機器の故障を例外として認めてはいけないという意見をいいました。そうしないと、例えば「5台使用したが5台とも動かなかった」といわれてしまう。機器の故障というのはあとで検証不可能なんですよね。やろうと思ったときは調子悪かったんだけど、3日後にやったらちゃんと映りました、というようなことも可能なわけです。そこで連合事務局長の神津里季生委員は、そのためには録音録画できなければ、録音だけでもよいからその場に置いとけば、機器の故障というのはなくせるんじゃないかと主張されました。そこまで反対し、法務省の事務局側から出てきた案からは、交渉、議論のなかで絞り込めたんじゃないかとは思うんですけど。これはやっぱり実際にこの制度を始めてから、裁判所の判断にかかってくるところが多いんじゃないかなと思います。

三島:
 安岡さん、もう一点お伺いしたいことがあります。対象事件の限定と、部会の第28回で示された2014年6月16日付けの最高検察庁の依命通知との関係についてです。この依命通知によれば、検察は、全面的に可視化するかどうかはともあれ、対象事件以外の取調べでも広く録音、録画をしていくことになっています。この依命通知が示されると同時に最終的な案が出てくるわけなんですけど、そのあたりはどのように評価されていますか。

安岡:
 私自身は意見として述べたのは、これはその審議会の審議のなかで出てきた問題ではなく、法務と検察当局が自分のところの判断でやっているもので、そこを依命通知を出してできるかぎり録音録画対象を広げていくというのは、審議の要綱づくりにあたっては考慮すべきことではないんじゃないかということです。特別部会の議論のなかで、要綱のなかにそれを入れるという意見が出たのであれば別ですけども、それと別個の話なんで。それを、それがあるから要綱のなかの対象の罪種はこれでよいんじゃないか、これぐらいにとどめておいてよいんじゃないかという議論はおかしいと申し上げましたけど、やっぱり法務当局からはこれがあるんだからということで随分個別の課題もありましてね。ちょっと筋が違うんじゃないかなというのが私の考えではありましたけども、先ほどもいった有識者5人で色々意見をすりあわせしたときには、最高検のこの措置を審議と関連づけ、将来に向けて改正見直しのときに適用の範囲を広げていくということの材料にしようじゃないかということで、そこを評価することにしたわけです。

後藤:
 録音録画の義務付けの範囲が狭すぎるということも、それから例外事由が広すぎるということも、結局妥協の産物です。
私が特に気になるのは、録音録画したら十分な供述ができないと認めることを前提にした規定であることです。十分な供述かどうかを誰が決めるかというと、取調べする人間が決めざるを得ないわけです。それは取調べのあるべき構造に反しており、黙秘権があるという前提と矛盾していると思います。しかし現実の条文はそうなっています。
 それで、依命通知は事実上、検察庁の約束になっているわけです。国会の審議のなかでもそれが前提になっているのですから、そのとおりやったらよいと思います。検察庁は既に録音録画の有用性を認識して積極的に使おうという姿勢になってきているのだと思います。そして遠からず、警察も有用性に気付いて積極的になると思います。だからこそ法制度的に、捜査官が必要と思うところだけを選択的に録音録画する制度は非常にまずいことがこれからいっそうはっきりしてくると思います。なので、やはり全過程の録音録画という原則を広げていくことが今後の課題になると思います。

三島:
 ありがとうございます。
 次に、録音・録画の効果について。調書の任意性の立証に際しては、DVDなどの録画媒体を出さないとその立証ができないという立証制限が入りました。元々、一般の証拠排除の原則でいくべきかどうなのかとかなり議論がされてきましたが、この点については積極的に評価できるのでしょうか。

後藤:
 ここのところは法案の構成が少しわかりにくいかもしれません。ついでに宣伝しますと、法律時報2016年1月号はこの刑訴法改正の特集号です。そのなかで私自身は法案全体の概要についてと、もう一つ取調べの録音録画のことについて書いておりますのでもしご関心があればご覧いただきたいと思います。今のところ、三島さんが言われた任意性立証のために録音録画記録を出さなければいけないというのは、厳密にはそうではないです。出さなければ、自白調書取調べ請求が却下されるだけです。それは調書の証拠能力が否定されることではないので、職権で採用する可能性があります。そのときに裁判所はもちろん任意性を認定しなければいけないわけだけども、その任意性を立証する方法は、条文上制限されていません。だからそれを捜査官の証言によって認定するという可能性も残されているわけです。

三島:
 今回の提案によれば、録音録画義務の違反は、手続の重大違法や任意性否定と直結せず、自白調書はなお証拠として採用される余地があるということですね。

後藤:
 録画録音義務のいわゆる担保措置をどうすべきかは、議論があったところです。結果として、録音録画義務の違反を証拠能力に直結させる案は通らなかった。そういう主張もされたけどそれは通らなかった。では、その他にどういうかたちで担保措置を設けるかという議論が行われた。例えば私はそのなかで録音録画義務の懈怠があるときは捜査官証言によって任意性を立証することを禁止するというような対案を出したのですけど、「そんな制度は聞いたことがない、見たことがない」という理由で採用されていません。

三島:
 今の点にも関わるのですが、改正法では前後に証拠調べ請求の条文が並んでいる301条の2という条文に、取調べの録音録画が定められることになりました。効果の定めが1項にあって、2項以降で録音録画義務を認めています。つまり、この条文の後半のところに取調べの録音録画義務が入ったわけです。安岡さんの先ほどのお話しからすると、非常にわかりにくい規定だと思いますが、そういう理解でよろしいですか。

安岡:
 この条文案が出てきたときに非常にわかりにくかったということはいえると思います。

三島:
 この点はいかがですか。なんでここに録音録画義務の規定が入るんでしょう。

後藤:
 私もわかりにくいと思います。それでも、注意しないといけないのは、条文全体をよく見ると録音録画義務は行為規範として定められていることです。それは調書の証拠請求とは別立ての一般的な義務です。なので、本当は例えば198条のあたりに取調べの方法に対する規制として録音録画のことを書いて、あと伝聞例外としての被告人の供述を採用するための条件として300条以下のところに効果のほうの条文を設けるというのがわかりやすいと思います。けれども、なぜかそのような条文構成になっていない。そうなっていないのはなぜか、それは私にもよくわからないです。この構成をとっているために、取調べの方法に関する行為規範としての性格が見えにくくなっていることは否定できないと思います。

三島:
 元々、法制審の要綱からして、録音録画媒体の証拠調べ請求が先で録音録画義務が後という順番でしたね。
 次に、中間処分の創設に関してです。勾留と在宅の中間処分で、身体拘束をせずに場所的な居住の制限とか、一定の場所への出頭の義務を課すもので、勾留を極力回避しようとするための措置です。弁護士の青木和子委員がこの提案を一所懸命されましたが、結局は頓挫しました。現行法では、起訴後については保釈の制度があって、身体拘束を回避する、解放する措置がある。これに対して、起訴前にはこの保釈の制度は無いわけです。そこで、中間処分の創設は、起訴後も重要なんですが、起訴前のほうにより重要性がある。特に取調べの問題を考えれば、非常に重要だと思います。ただし、この中間処分は、お金を払わないですむという点に違いはありますが、保釈とかなり似ている制度だと思うんです。部会の審議をふりかえってみますと、まず、起訴前の保釈というものを入れるかどうかということについて、第19回の部会で入れないっていう判断になります。そしてそのことを前提に、その後この中間処分の創設が本格的に検討されるんですけど、両方はかなり似ているので、起訴前について保釈を入れないということは、中間処分の創設を議論しても頓挫することが運命づけられている、というか、そこまではいえないにせよ、頓挫したことと強い関連性があるのではないかという気がします。この点、後藤さんいかがでしょうか。

後藤:
 私の立場は議論の経過でいうと、起訴前保釈が否定された後、青木委員の提案を支持した、こういう立場です。論理的には保釈はどこかで一旦勾留された人に対するもので、それに対して代替的措置のほうはそもそも勾留自体を避けるためのものです。ですので、別物だということが一応いえると思います。私もそう考えていました。しかし、今の三島さんの指摘は非常に鋭いと感じるところがあります。なぜかというと、起訴前保釈を認めない表向きの理由は、保釈保証金では担保として弱すぎるため起訴前保釈の目的が達せられないからです。となると、保釈保証金もなしに代替的処分で目標が達せられることがあるのかという問いが出てきてしまい、それがあるとすれば、それはそもそもいま勾留されていない人たちにそういう制約を課す場合だということになりはしないかというような疑問が出てくるという論理的な構造が確かにあります。もう一つは起訴前保釈が認められない本当の本音の理由は、保釈してしまうと取調べが不便になるからです。その発想がある限り、やはり代替的措置に対してもどうやって取調べを確保するかがネックになってしまい、実現できない。だから起訴前保釈を実現することが実はこの代替的措置を実現するための前提になるのだという理解は、本当かもしれないと、考えさせられたところです。

三島:
 ありがとうございます。最後にそれぞれ一言ずつ、提言などがあればお願いします。

安岡:
 新時代の刑事司法というものの共通認識として、書証偏重の公判、それから調書作成偏重の捜査というのから脱却しなきゃいけないというところでは、完全脱却するか、それほどじゃなくてもよいっていうのは、先ほども紹介した東京地検の検事正のご発言であったり、程度問題はあるんですけどもそこから抜けなきゃいけないというような結論だったと思うんです。裁判員裁判でもまた書証が多くなってしまっているという指摘も聞きますので、書証頼りから少しでも抜けられるような制度を考えたっていうのは、今度の国会に引っかかったままですけど、それを法曹三者がどれだけ書証偏重という刑事司法から脱却する気があるのかと、脱却してくれるのかというところに注目したいと思います。
 それと同時に刑事弁護について、きょうは話題になりませんでしたけど被疑者国選の拡大というのは非常に大きいと思うんですね。私が理事を務める司法支援センターの大きな仕事というのが国選弁護の運営なので余計いえるんですけども。この被疑者国選の拡大のためには、量的な意味での刑事弁護の保障が必須です。それから質の問題でも、日弁連前事務総長を前にしていうのは申し訳ないんですが、裁判員の方たちの感想を聞くともう一目瞭然なんですけど、刑事弁護の質が、外から見ているとなかなか心許ない状況です。被告人、特に無実の罪で被告人にされたというときには弁護士が頼りなわけで、刑事弁護の質の向上というのもしっかりやっていただきたいなというふうに思います。

後藤:
 さきほど申し上げました通り、現実的に、立法での解決には大きな限界があると思います。なので、運用とか判例で突破口を広げていくことが必要です。そのためにいま安岡さんがおっしゃったように刑事弁護人がしっかりやらなければならないというのは、そのとおりだと思います。裁判員制度の持っている意味が、重要だと思います。その国の刑事司法がどういうものになるかは、究極的には国民がどういう意識を持っているかによって決まり、それが反映されていくものだと思います。だから国民全体が今の刑事司法のやり方はそれでよいと思っている限りは大きくは変わらないなと思います。そういう意味で非常に面白いのは、例えば最高裁はこの間の議論のなかで「人質司法なんてありません」と一生懸命否定しているのに、他方で最近の最高裁の多くの決定を見ると盛んに「もっと保釈しろ、やたらに勾留するな」というメッセージを下級裁判所に対して出しています。どうしてそうなってきたのか。一つには、裁判員制度の影響があるかもしれません。裁判員から「なんでこの人を勾留してるのですか」といわれたら裁判所に対する信頼が成り立たない、そのような意識がもしかしたら働いているかもしれません。そうすると刑事司法に対して自分なりの見方を持っている裁判員候補者、潜在的な裁判員たちを育てていくことが、大きな目で見ると非常に重要な課題になります。

三島:
 そうしますと、法教育とかマスコミの報道とか、さらにはERCJのようなNPOの活動とかも非常に重要だということになるんですね。
 それではこれで終了させていただきます。ゲストのお二人、どうもありがとうございました。
 

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